求真

     
 

明英宗が復権した太和門


明英宗が復権した太和門

紀元1457年つまり、景泰八年正月十七日の朝は、朝する時間になったがまだ薄暗い有様であった。大臣らは何時もと同じように早めに午門外に来て宮門の開門を待機した。当時在位の皇帝は明英宗の朱祁鎮の弟―朱祁钰の景泰皇帝であった、八年前、明英宗が間違ってモンゴルのワラ族を親征したため、捕まえられて大敗した。成王の朱祁钰が後継者として帝位に即位された、一年後、少しも傷害されずに釈放されたが、太上皇になって紫禁城外にある南宮で余生を寂しく送るしかなかった、七年経ち、景泰皇帝が重態になって、長く朝に臨めない、心配で堪らない大臣らは、宦官を通って皇帝を慰安し、皇太子を冊立するよう上奏するしかなかった。大臣らは十七日に朝すると景泰皇帝からの綸旨を受けた。

開門を待つ大臣らは宮中から微かに伝わって来た騒ぎ声に幾らか異様の感じがした、その時に鐘と太鼓が一斉に鳴って宮門が開かれた。午門にある鐘と太鼓は大朝会の時に初めて鳴らされるが今日は普通の朝会ではないかと大臣らは疑問を抱きながら不安でいた。大臣らは内金水河の玉帯橋を渡ると奉天門の金台に既に座っている人が霞んで見えた。普通は皇帝が大臣より早く朝することはないが、この時、太上皇が復権されましたよ、速く祝賀に参りましょうという仰天させた声が聞こえた、奉天門に近づいた大臣らは頭を上げて見ると玉座に座っている人は間違いなく景泰皇帝の兄―太上皇の朱祁鎮なのである。

前日の深夜に史上「奪門の変」という宮廷事件が発生した、奪いあった門は奉天門なのである、景泰皇帝は元々病を押してこの日の早朝に朝するつもりがあったが早くも復権を企んだ皇宮近侍役人が朝廷の重役を連合して景泰皇帝の来る前に夜に乗って紫禁城外の南宮から太上皇を「招いて」、繰り上げて奉天門の金台に座って大臣らを待たせた、そのニュースが景泰皇帝の耳に伝わった時に良かった、良かったと何度も語った。

明朝の皇権を代表する奉天門は嘉靖年間に可笑しいことが発生した、嘉靖十八年の夏のある夜、身元不明な人が紫禁城内に混入し、知らず知らずの内に奉天門に潜入した、翌日の早朝に当番の宦官が気が付くまで裸それに裸足のままで皇帝の玉座に座った。偶然閉めた奉天門の隙間を覗いた宦官に発見され、速やかに呼ばれた衛兵に捕まえられた。訊問するとこの人は孫堂と言い、無職の流民と言う事が分ったが意識曖昧、ぼんやりとする人である事が気が付いた。当時、嘉靖皇帝が亡くなったばかりの皇太后の葬式のために宮外に出ていた。死罪に判決されたが、皇帝からの実行勅命がずっと下さないままで、棚上げにして明朝紫禁城の怪談になった。

 

 
 
 
 

皇帝が政務処理される御門


皇帝が政務処理される御門

太和門は奉天門と言われた明代に王朝の政治活動の重要な場所で、皇帝は平日、ここで「御門聴政」した、その他に、皇帝の即位行事、大朝会、皇后冊立、太子冊立などの政事活動もよくここで行われた、これらの行事は他の時代に全て大和殿で行われた、明朝に奉天門で行われたのは止むを得ない原因がある、皇宮の正殿―奉天殿が完工された後八ヶ月に天火に焼失され、その後の二百年の間、何度も修復したり、破壊されたりしたためであった、それで、奉天殿で行うべき式典や行事は奉天門により分担された。皇帝が日常政務を処理する最も基本的な方式は朝に行って政務を聴くということである、これは常朝という、今までの王朝、例えば漢代、唐代の王朝は通常、常朝が五日おきに一回であったが明朝の初期に何人の皇帝は祝日、喪日以外に毎日朝に行って政務を処理していた、毎日朝皇帝は輿に乗って大奥を出て、奉天門の玉座に座って大臣らの上奏を聞いて、政務を裁決する、玉座は金台と言われ、階段がある基壇で上に龍形の玉座が置かれる。皇帝が金台に上がり、皇帝の二名の腹心宦官は一人が金台の上に立って黄蓋を手に執り、一人がコイルを付けた三角刀があり、収まった扇形にした黄羅袱を手に執って玉座の後ろに立つ。非常の時にコイルは直ぐ外せる(扇形にした黄羅袱は卓影と言い、朝鮮国から奉献され、魔除に使うと言う説もある)。錦衣力士衛兵は奉天門の東西の階段から上がって、玉座の後ろの両側で五傘蓋、四囲扇を開く。皇帝が金台で着席すれば、一人の宦官は山河の図案が彫刻された香炉を持って皇帝の前に来て玉座の前にある黄案に安置し、「支度が済みました」と上奏して「御門聴政」が始まる。

毎日朝に臨む規制は明朝の太祖が定めたものであり、明朝の開国皇帝が一挙で宰相の官位を取り消したため、宰相が担当すべき政事は皇帝に回されたからであった。朱元璋は夜遅くまで聴政に夢中になって、疲れの感じがしなかったが、彼の子孫らにとっては無理という感じであった、朱元璋以降の何人の皇帝は毎日朝に臨んできたが先祖ほど夢中にならなかった。明成祖から、内閣大学士に報告書の審査を手伝わせ、益益内閣大学士から構成された秘書グループは宰相みたいになった。明中期頃から、御門聴政は形式に止まった、大臣からの奏する報告書の副本は一日前に既に内閣に提出され、内閣大臣が処分案も提出された。朝する時に唯上奏、綸旨の公布という事前に用意した日程通りに進むだけのことである。明中期、後期には政務を怠け、宦官を頼み、享楽にふける皇帝が殆どであった、毎日、朝に臨む祖先が決めた規制は破られただけではなく、長年朝しないほどになり、二十四年も連続して朝に臨まない皇帝もいた。

 
 
 
 

第二章 太和門から大和殿


(一)          太和広場,居丈高な宮殿 [阅读全文]
 
 
 
 

紫禁城の朱壁と碧水


蓮の花が満開したお堀及び追伸情報 [阅读全文]
 
 
 
 

明英宗土木事件


歴史を立証する午門 [阅读全文]
 
 
 
 

提灯の観賞,結婚式の拝観


午門前に於ける提灯の観賞・「花衣」を着用する結婚式の拝観 [阅读全文]
 
 
 
 

百官、棒罰と会合審判


午門前の百官、午門前に於ける棒罰と会合審判


[阅读全文]
 
 
 
 

春牛を宮中に、「状元」


春牛宮中に、皇宮を出る状元」 [阅读全文]
 
 
 
 

新闻集粹


新闻难点翻译 [阅读全文]

新聞抜粋


ニュース難点の試訳 [阅读全文]
 
 
 
 

午門式典


凱旋「受俘式典」、暦を公布する [阅读全文]
 
 
 
 

訳園抜粋


syouri 
ironako 訳例
[阅读全文]

午門外


巨大な障壁、皇宮の正門

[阅读全文]
 
 
 
 

(一)紫禁城 城の中の城


天安門に於ける詔書公表、拝聴 

[阅读全文]
 
 
 
 

建网志纪念


从事与日语相关的工作已三十余载,笔译口译营销导游全部涉及,而今年近花甲,精神尚存,闲暇之余在此开一小块自留地,渴望尽可能多地能搜罗出译园中的异草奇花,细细品尝鉴赏,修剪出自己的真善美的小花,望同仁光临指教。

[阅读全文]
 
 
 
 
 

博客日点击排行

« 二月 2012
星期日星期一星期二星期三星期四星期五星期六
   
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
   
       
今天

Valid XHTML or CSS?

[This is a Roller site]
Theme by Rowell Sotto.
 
© tianran_302