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紫禁城全景式案内


前書き


世界最大な皇宮は中国の北京の中心に位置する、それは明清時代の紫禁城なのであり、中国古代からいままで残っているただ唯一の完全な皇居なのである。

中国は四千年もの文明を持つ国であるが、数千年にわたって歴代の王宮や皇宮はローラン古城みたいにすでに残壁や瓦礫だけが残っているか残痕までも無くなったのである。かって王朝の多くの壮大な宮殿はもう野外の無名の荒丘になったり、その後の市街区に覆われたりしたのである。

中国の皇宮建築は基礎以外に皆土木構造で心を込めて保護していけば千年も維持できるが壊された多くの宮殿は風雨にて壊されたのではなく油断の火災か故意の火災で破壊されたのである。古代の中国は王朝の交替が頻繁のため、多くの新興王朝は殆ど旧王朝の皇居を壊したことでその支配の終了を宣告したわけである、ただ清代の王朝――中原に進入した少数民族の政権だけが一般と違ったやり方で明王朝の皇宮を完全に受け入れた。

紫禁城という言葉は歴代の皇宮に対する別称である、古代の皇帝は自分の皇宮を大内と言い、古代の官吏はそれを禁中と言う。紫禁という言葉は星相学説の考え方に基づいて作られたものである、古代の星相学説によりますと、上天には紫微と言う星座があり、あそこは天神が住んでいる宮殿で世間の皇帝の住んでいる宮殿としてそれと対応しなければならないと思われる、それで紫微と禁中と言う言葉の文字を使って紫禁という言葉を継ぎ合わせた、唐代の詩人が詩作の中でよく紫禁と言う言葉を使って皇宮のことを表現していた。それは、詩人が星相を迷信するためではなく、「禁中」より「紫禁」のほうがもっと風雅的に見えるためである、紫禁城の「城」と言う字はいうまでもなく皇居はお城の中の城という意味である。古代でも紫禁城という言葉は朝廷が皇宮に対する公式な名称ではない。故宮と言う言葉は古くから滅ぼされた王朝の宮殿を指して言ったもので明清時代の紫禁城は1925年以後に故宮と言い始められたのである。

二十一世紀に入ったばかりの新時代に明清時代の故宮――当時の紫禁城に来たのは過ぎ去った王朝を回顧するためではなく、現代人の審美観で文化の宝庫に入って中国古代の建築、文化、宗教、芸術の成果を鑑賞すると同時に現代人の立場で何千年にわたる中国の君主制度の権力運営を読み取り、人間の天子と言われる皇帝の真実な生活を理解するためである。

明清時代の紫禁城――敷地面積が72万平方メートル、建築面積が17万平方メートルに及ぶ壮麗な皇宮は現在に取り替えられない世界最大の皇宮になったが、われわれが知らなければならないことは中国の皇宮の建造歴史において、明清の紫禁城は割合小さい、秦、漢、唐時代の皇宮だけではなく、南京に建てられた明太祖朱元璋の皇宮よりもいくらか小さい。皇宮の勢いにおいても漢、唐代のそれより劣る。単に皇宮の中の最大な宮殿の規模から言っても歴史上においてそれは広大な宮殿とは言えない。中国最大の単体宮殿は紀元前の秦時代に建てられ幅が二百メートル余り、奥行きが百メートル余りもある。しかし、明清時代の故宮の最大な宮殿――太和殿はただ、幅が60メートル、奥行きが33メートルぐらい、唐代の麟徳殿はそれの三倍ほどに相当する。ただし、精美さと風雅さから言ったら明清時代の紫禁城は歴代の皇宮のトップに位置付けられる。歴代の建築工芸の最高の成果を一身に集め、その配置が最も均整、合理化され、規制は最も古代皇宮の建造理念に合うものである、今世界文化遺産の列に入り、中国人の文化財産だけではなく、同時に全人類に所属するようになったのである。

 
 
 
 
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