求真

     
 

午門外


巨大な障壁

皇城の大門―天安門の北、宮城の大門―午門との間にある門は端門であり、巨大な障壁のように皇宮の大門の前を守護し、宮中に行く人に慎重な風采と粛然たる心境を保たせるように提示しているようである。

端門の楼上には清代にかって閲兵される八旗禁衛軍の検閲専用の武器、武具を収納したことがある、刀は一万八千腰、矢袋も一万八千枚、甲冑は一万八千具余り、梅針式矢は十八万本もある、使う時に受け取り、済んだ時に返す。

端門から北への通路の両側は明清王朝の中央機構六部の公署で朝房と言われる、帝政時代に早朝に行く大臣らは五更(朝三時から五時まで)に続々と午門の前に来て、朝房で開門を待つ、これは待漏朝房と言われる。待機している大臣らはここで、政務の情報を交流したり、意見交換したり、挨拶など気を配いあったり、政敵と暗闘したりする。両側の朝房の北側に元々二つのの門があった、一つは阙左門、一つは阙右門と言われる、開門する直前、文官は阙左門、武官は阙右門で待つ。


皇宮の正門

端門から北への通路の突き当たりは一つの広場であり、高大な皇宮の正門―午門が雄渾たる姿でここで聳え立って、来訪の人々を迎えている。

午門は紫禁城に於ける最高な建築で、楼台と楼閣からなっている、楼台は高さ12メータで、10メーターの宮壁より2メーター高い、上部の楼閣を入れて、38メーター、幅と奥行きとも九間であるが、前者は62メーター、後者は約28メーターある、午門の東西両側に楼閣がそれぞれ二座あり、幅と奥行きは皆五間である、各楼閣の間に回廊で、繋がって中央にある大門の楼閣を守護し、際立たせている。空中から鳥瞰すれば四座の楼閣はまるで巨鳥の二つの翼に見える、これは偶然なことではない、古人の思想の中に東西南北の方位はそれぞれ一つの神獣を象徴とする観念がある、南方は朱雀で唐代の大明宮の南の正門も丹鳳門と命名されたことがある、それで明清代の紫禁城の午門及び楼上の楼閣を五鳳楼と別称された。午門の真正面にある門洞は三つ有る、真中の門洞は皇帝の出入り専用であり、左(東側)の門洞は文武百官専用であり、右の門―西側の門洞は原則上皇族専用であるが、平日余り開けない。朝する人は皆左(東側)の門洞から入る、両側にまた脇門もあるが平日閉じるが大和殿で大朝会と毎月の朝会を行う時に文武百官が利用され、殿試の受験結果を公表する時に順位が奇数の人は左側の脇門を通り、偶数の人は右側の脇門を通る。

午門の東西の南側に太廟と社稷壇への門がある、太廟は明清時代に当王朝の先祖を祭る場所であり、社稷壇―現在の中山公園は明清時代に土地と五穀の神様を祭る祭壇であった。この祭壇と廟は対称的な配置で紫禁城の東南と西南の城壁外に拠りかかっている。これは上古の周代から定められた「左祖右社」と言う王宮建造規制を完全に守った例である。

午門の楼上の左右両側に皆回廊があり、大鐘と太鼓が設置されている、宮中で盛大な大朝会を行う時に大鐘と太鼓が一斉に鳴らす。祭り行事が始まって皇帝が紫禁城を出た時か済んで帰った時に鐘を突くか太鼓を叩く。社稷壇か天壇地壇など祭壇での行事の場合は、鐘声が響き、太廟での祭り行事の場合は太鼓の音が響く。

午門の楼上に大鐘と太鼓以外に武器や大毒も収納している、永楽帝が使われた槍も陳列され、午門を守護する宝と言えるであろう、明代の詩人―程文徳は「五鳳楼登り」という詩の中にこういう:金鐘太鼓は十囲みほど大きく、震撃すれば元来、百里まで聞えふ、紫電清霜は(色んな林立の兵器)森森たる武庫、高幢大蠹(旗)紛纷たる無数、中に戈(槍)を手に持つ神祖に恵まれて、摩娑黯黯たり、雲霧 生まれる」

明清時期に中国は依然として東アジアの中央帝国で周辺にある朝鮮やアンナン(現在のベトナム)、琉球、タイラ(現在のタイ)などは皆藩国と見なされ、これらの国から派遣された使節は貢使と言われた、午門は王朝の象徴としてずっとこれらの国々の使節を送迎するところであった。

 
 
 
 
Comments:

Post a Comment:
  • HTML Syntax: Allowed
 

博客日点击排行

« 五月 2012
星期日星期一星期二星期三星期四星期五星期六
  
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
  
       
今天

Valid XHTML or CSS?

[This is a Roller site]
Theme by Rowell Sotto.
 
© tianran_302