eiken

Thursday Aug 21, 2008

死神の精度9-6

 藤木一恵に再びあったのは、二日後の夜で、やはり小雨が降っていた。職場のビルの前で持ち、自動ドアから出てきた彼女を見つけて、跡を追った。横の車道を車が通り抜け、轍に溜まった水を潮騒のような音を立て、弾いた。

 前回よりも急ぎ足だったのか、私は追いつくのに苦労をした。かなり近づいたところで手袋をつけた手を伸ばし、彼女の右肩を叩く。びくっと彼女が振り返った。眠っている猫に湯をかけたら、こうなるのではないかと思えるくらい、敏感な反応で、私のほうがたじろいでしまった。

 私の顔を見た彼女が、「ああ」と小さな声を発し、安堵の色を浮かべた。どうやら、私に怯えていたわけではないらしい。

 「実は」私は、ポケットからハンカチを取り出した。「これを返したくて」

 「え、それ、わたしの」

 「そう。この間、俺がビールをこぼした時に貸してくれただろ」

 「そ、そうでしたっけ」彼女は暗い顔で、首をひねっている。嘘だった。実際には、タクシーに乗せたときに私が、彼女のポケットから抜き取ったのだ。

 「この間は、どうもありがとうございました。私よく覚えてなくて」彼女はしどろもどろになりながら頭を下げた。

 「どうだろう、ちょっとまた話ができないか」

 彼女はきょろきょろとあたりを窺った。人目を気にしている、というよりは、警戒をしているようだったので、「まずいかな?」と遠慮をしてみる。

 「い、いえ」彼女は首を振る。「あの、実は、近くにいるかもしれないので」

 「誰が?」

 「前に言ったかもしれませんが、クレームの電話をくれるお客さんです」

 「君をご指名で、苦情を言ってくる人か?」

 「ええ」彼女の声はか細かった。「今日も電話があったんですけど、あいたい、とか言われて」

 「それは怖い」

 「近くにいるかと思って」

 というわけで私は、即座にタクシーを捕まえ、隣の街まで移動した。何て強引な、と彼女が拒絶してくるかとも思ったが、幸いそういうことはなかった。見知らぬ喫茶店に入ると、彼女はむしろ安心した様子になり、「ここなら、きっと大丈夫ですよね」と肩から力を抜いた。

 「そのクレームは気味が悪いな」わたしは、彼女に話を合わす。ぜひとも喋ってもらいたい、というほどではなかったが、彼女がどれくらいつらい毎日を送っているかが分かれば、それはそれで報告書を書く判断基準にはなるし、何よりもこうやって相手の悩みを聞きだすと、仕事をしている、という充実感を得ることができる。

 「はじめは、ビデオデッキの取り出しボタンが壊れた、という苦情だったんです」

 「もうすこし、大きな声でしゃべればいいのに」私は意識する前に、口に出していた。

 「え?」

 「小声で喋ってると暗い感じがする」そうでなくても彼女は暗い空気をまとっているので、口調くらいは明るくすべきだと思われた。

 「仕事の時は、無理して、明るい声を出してるんですけど」

 だろうな、とは思った。こんな声で話していたら、苦情主は更なるクレームを重ねかねない。

 「私のところに回されるお客さんというのは、些細なことで言いがかりをつけているような人ばかりですから、じっくり話しを聞いてあげて、ひたすらに謝るだけなんですよ。申し訳ありません申し訳ありません、の繰り返し」

 「想像しただけで、憂鬱になりそうだ」

 「最初はその人もそうだったんですけど、途中で変な感じになったんですよ。急に、『もう一度謝れ』とかいうんです」

 「もう一度?」

 「『もう一度、謝れ』って。当然、私は謝るんですけど、それを繰り返すんですよ。何度も何度も。もう一度って。最後のほうは、何か喋れ、って怒ったりして」

 「女性に謝られると、性的に興奮するタイプなのかもしれない」根拠があったわけではないが、人間の性的な嗜好の多様性については私もよく驚かされるので、無い話ではないと思った。

 彼女はうぶなのか、「性的」という単語に顔を赤らめた。「で、その日はおわったんですけど、翌日、また電話が来たんです。今度はテレビでした」

 「画面がどんどん狭くなってきて、突然、切れるって言うんです。もちろん、うちから修理に出向くって伝えるんですが、それはいいから原因を説明しろ、っていうわけです」

 「故障の原因?」

 「わたしが分かるわけ無いじゃないですか」

 「君はそういう役割ではない」

 「苦情処理ですから。そのテレビを見たわけでもないですし。それなのに、なんでもいいから話せ、と言うんです。もっと大きな声で、もっとはっきりとって」

 「キット、話の内容なんて何でもいいのかもしれない。君と喋りたいだけで」といって見せると、彼女はひどく嫌そうな顔になった。

 「次はラジカセでした」

 「ミュージック!」思わず、声をあげてしまった。自分で恥ずかしくなる。「ラジカセが壊れたのか?」と取り繕うように続けた。

 「それもきっと嘘ですよ」彼女が顔をゆがめる。「CDが取り出せなくなったとか言って、その曲を歌って聞かせるんですよ」

 「おかしいな」

 「ですよね。で、おまえはこの歌を知ってるか?歌ってみろ、とかずっと言ってくるんです」

 「修理が必要なのは、その客の頭だ。悪質だな。そして、ついに、『会いたい』とか言ってきたわけか」

 「そうなんです」彼女は力のない弱弱しい声を出すと、下を向いた。「DVDプレイヤーの故障について、くどくど文句をつけてきた後、どこかであえないかと言ってきて」

 「もしかすると、君を気に入ったのかも」

 「私を?」彼女はそのことについては予想もしていなかったらしく、驚いた。

 「君の応対に惚れ惚れしたのかもしれない」もしそうだとすると、彼女は死にたくはなくなるだろうか。

 「そんなこと」彼女は動揺し、それから少し嬉しそうな素振りも見せたが、すぐに気がつく。「そんな変な人に気に入られても、嬉しくないです」

 「だろうね」変質者に近い苦情主が、彼女を幸せにするとは思えなかったし、暗い女性とクレーマーのカップルの未来が明るいとも、考えにくかった。

 彼女は暫く黙っていた。何か話すべきだろうか、と思い悩みながら窓の外を見ると、顔をしかめた通行人が傘を差して歩いているのが目に入った。外の歩道にはところどころに水溜りが出来ていて、地面の凹凸を浮き彫りにしている。

 「最近、雨が多いですね」

 「俺が、仕事をするといつも降るんだ」私は打ち明ける。

 「雨男なんですね」と彼女は微笑んだが、私には何が愉快なのか分からなかった。けれどそこで、長年の疑問が頭に浮かんだ。「雪男ちうのもそれか」

 「え?」

 「何かするたびに、天気が雪になる男のことか?」

 彼女はまた噴出して、「可笑しいですね、それ」と手を叩いた。

 不愉快になる。真剣な発言をユーモアだと誤解されるのは、不本意だった。大体が、どのあたりが可笑しいのか、自分が理解していないものだから、次の会話に生かすこともできない。私はこういう体験が非常に多く、そのたび不快になる。

 暫く経って、彼女が「わたしの人生って一体なんでしょう」と声を洩らした。我慢していたものが、吹き零れてきたかのようで、私はどきりとする。彼女の目に、縋ってくるような色が浮かんでいた。落ち込んだ穴から這い上がれない女性が、地上を見上げて「ロープが落ちてこないかしら」と、媚びと最速のない交ぜになった声を発するのと似ていた。

 彼女はもしかすると、私に助けをを求めているのかもしれない、と思った。いいことなしで低空飛行の人生から自分を救い上げてくれるのは、目の前のこの男に違いない、と期待しているように見えたのだ。そういえば、今回の私は、なかなかに魅力的な外見をしている。これは喜ばしいことではない。残念ながら、やくには立てないし、私の仕事の範疇からは外れている。同僚の中には、どうせ来週には死んでしまう相手なのだから、せめてその短い間だけでも幸せな思いをさせてあげたい、といろいろな演出をするものもいるが、私にはそういう趣味はなかった。これから切ろうとしている髪の毛に、「せっかくだから」と装飾を施すのと同じだ。いずれ、切られることに変わりはないのだから、何をしようと意味が無い。床屋が髪の毛を救わないように、私は彼女を救わない。

                                 続く……

 

 

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