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Wednesday Jul 23, 2008

死神の精度9-2

  地下鉄の階段の手前、屋根のある部分に足を踏み入れたところで、私は傘を畳んだ。畳む前にばさばさと二、三度振って、水飛沫を弾く。付いていた泥が、前に立っていた彼女の背中に飛んだ。

  「あ」と私は声を上げる。予想していたよりも、大きい雫になった。不審そうに彼女が振り返る。

  「申し訳ない。泥が飛んで」私は頭を下げる。

  彼女は首をひねり、無造作に自分の着ているスーツを引っ張り、汚れた部分に目をやった。ベージュの生地に五百円硬貨程度の泥が付いているのを確認すると、もう一度、訝しんだ目を向けてきた。怒っているようにも見えるが、いや、当然、彼女には怒る権利はあるのだが、それ以上に戸惑っている様子でもあった。そのまま、階段を下りていこうとするので、慌てて、立ち塞がる。

  「ちょっとまってくれ。クリーニング代を出すから」と申し出た。

  詳しく確かめたわけではないが、今回の私の姿は、若い女性には魅力的な外見になっているはずだった。ファッション雑誌の男性モデルとしても通用する、二十代前半の青年だ、と情報部からは説明を受けた。彼らは調査のたびに、もっとも仕事のやりやすい人物像を導き出し、私たちの外見や年齢を決める。

  だから、私の見た目が、彼女に嫌悪感を与えたとは思いにくかったが、やはり唐突にお金の話をしたのはおかしかっただろうか。

  彼女がなにを言った。いえ結構です、だとか、もういいです、だとかそういった内容だとは把握できたが、あまりにも小さくこもる声だったので、よくは聞き取れなかった。「待ってくれ」思わず、反射的に相手の腕を掴みそうになった。すぐに手を引っ込める。

  手袋をするのを忘れていた。人間の身体に素手で触れてはいけないことになっている。触った途端に、人間は絶してしまい何かと面倒が多く、だから緊急の事態を除いて、禁止されている。規則なのだ。違反したものには、一定期間の肉体労働と、学習カリキュラムの受講が強制される。

  そんな些細な規則違反は、人間が行う煙草のポイ捨てや信号無視と同じなのだから、いちいちうるさいことを言うべきではない、と私は感じるのだが、口には出さない。抵抗を感じようとも、守らねばならぬ規則には従うべきだと思うからだ。

  「そんなに高そうなスーツに汚れをつけて、そのままにはできない」私は言う。

  「高そう、って上下で一万円ですよ」彼女がようやく聞き取れる声を発した。「嫌味ですか?」

  「そんなに安くは見えないが」実際には、充分見える。「もしそうなら、なおさらよくない。お買い得のスーツはなかなか手に入らないだろ」

  「いいですよ。こんな汚れ」彼女は暗い声を出す。「いまらさ泥の一つや二つ付いたって、変わりませんから」

  そうとも、君の人生は泥が付着した程度では変わらない。一週間後には亡くなってしまうのだし、と思ったが、口には出さなかった。

  「いや、では、こうしよう。お詫びのかわりに、食事を奢らせてくれないか」

  「は?」彼女は、いまだかつて耳にしたことのない台詞を聞いた、という顔になる。

  「いいレストランがあるんだ。一人では入れそうもないから、付き合ってくれると助かる」

  彼女が、私を睨んだ。人間というのは実に疑い深い。自分だけ馬鹿を見ることを非常に恐れていて、そのくせだまされやすく、ほとほと救いようがない。もちろん、救う気もないが。

  「他の人たちは、どこに隠れてるんですか?」彼女が棘のある言い方をした。

  「え?」

  「どこかに隠れて、みんなで笑ってるんですよね。私を、そうやってナンパするようなことをして、反応を楽しんでるわけですよね」喋る、というよりは、念仏を唱えている印象だ。

  「ナンパ?」虚を衝かれた気分だった。

  「わたし、見た目は冴えないですけど、でも、誰にも迷惑をかけてないんですから、かまわないで下さい」

  彼女が先へ行こうとする。そのとき、私は軽率にも彼女の肩を素手で掴んでいた。しまった、と思ったときには遅く、彼女は顔だけでこちらを振り返り、そして、死神の姿でも見たかのように、いや実際には見ているのだが、とにかく血の気の引いた青さめた顔になって、へなへなとその場に座り込んだ。

  後悔をしても遅い。同僚に見られなかったことを祈るだけだ。ポケットから手袋を取り出し、それを両手につけると、地面にへたり込んだ彼女を抱えて、持ち上げた。

                             つづく……

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